カルマル同盟とはデンマーク・スウェーデン・ノルウェーの北欧3国が1397年に締結した歴史的な同盟です。
この同盟はスウェーデンのカルマル城が署名場所となり、以後数百年に渡って北欧諸国を結びつけることなります。
ここでは北欧諸国がカルマル同盟を結ぶに至った背景や目的、最終的に同盟関係はどうなったかなどを解説していきます。
カルマル同盟とは?

カルマル同盟とは、デンマーク・ノルウェー・スウェーデンの北欧3ヵ国が締結した、デンマーク女王メルグレーテを中心とした同君連合です。
君主連合とは、同じ盟主の元、複数の国々が同盟を結び結束を強めることです。
カルマル同盟の場合は、デンマーク女王マルグレーテを君主として、彼女の名の下に北欧諸国が団結しました。
そしてカルマル同盟の結成により誕生したのが、デンマーク連合王国と呼ばれる、デンマーク・スウェーデン・ノルウェーにより形成された巨大な連合国家です。
デンマーク連合王国は当時の中世ヨーロッパでは、最大規模を誇る国家だったと言われています。
カルマル同盟の名前の由来

カルマル同盟の名称の由来となっているのが、スウェーデンの都市カルマルにあるカルマル城です。
カルマル城は1200年頃にスウェーデン国王クヌート1世によって、デンマークやバルト海の海賊から港町カルマルを防衛するための軍事要塞として建築されました。
そして1397年7月13日、カルマル城に3カ国の有力貴族が集まり、カルマル同盟への調印が行われることとなります。
つまり、1397年の同盟の署名場所がスウェーデンのカルマル城だったことから、同盟の名前がカルマル同盟となったのです。

北ドイツのハンザ同盟への対抗が目的
なぜ北欧諸国はカルマル同盟を結ぶに至ったのでしょうか?
カルマル同盟結成の背景には、当時北ヨーロッパ一帯に勢力を拡大していた、北ドイツを盟主としたハンザ同盟の存在があります。
結論を先に言うと、カルマル同盟はドイツのハンザ同盟への対抗を目的に結ばれた同盟なのです。
まずハンザ同盟とは、北ドイツ一帯に点在する都市の数々が、都市リューベックを中心として結成した都市同盟です。

ハンザ同盟の目的は、都市同士が一致団結することによる商業圏や貿易販路の拡大、国家や諸侯貴族に対する影響力の強化です。
12世紀の中世ヨーロッパ時代に生まれた商業都市連合のハンザ同盟は、最盛期の14世紀には100以上、一説によると200ものヨーロッパの都市が加盟する一大連合となり、ヨーロッパに巨大な経済圏を形成しました。
近世になりヨーロッパ各国で主権国家体制が誕生したことで、ハンザ同盟は弱体化していくことになるのですが、それでもハンザ同盟は12世紀~17世紀の近世まで長きに渡って存続しました。
そして14世紀にはハンザ同盟の支配権は北海やバルト海沿岸部まで及ぶこととなり、このことがきっかけで北欧諸国との対立を深めていくことになります。
北欧諸国とハンザ同盟の商権をめぐる対立

ハンザ同盟の商業圏が北海・バルト海沿岸といったスカンジナビア諸国一帯まで拡大することで、14世紀頃から北欧諸国と貿易の利益を巡って対立するようになります。
そして1368年にはデンマーク戦争と呼ばれる、デンマーク王国とハンザ同盟が組織した臨時の合同海軍との戦争が起こります。
ハンザ同盟側は、加盟都市間で軍艦や兵士、財源を共同出資するケルン同盟を結び、デンマークに対応するための連合艦隊を結成しました。
1368年のデンマーク戦争では、リューベック市長を司令官とするハンザ同盟がデンマークの首都コペンハーゲンを襲撃し、最終的にハンザ同盟側が勝利を納めることにあります。
デンマーク戦争終結後の1370年にはシュトラールズント平和条約が両国間で結ばれました。
以降も北欧諸国とハンザ同盟都市における、商業圏の利益を巡る対立は激しさを増していきます。
こうしてハンザ同盟の覇権拡大を重く受け止めた北欧諸国側は、1397年にカルマル同盟を結成し、ハンザ同盟と同じく連合国家を作ったのです。
カルマル同盟と君主マルグレーテ女王

ここではカルマル同盟のより詳細な実情について解説していきます。
まず、カルマル同盟を締結した三国は当時、王族間の政略結婚で密接な繋がりがありました。
カルマル同盟の旗振り役であったデンマークのマルグレーテ1世もノルウェー王ホーコン6世と結婚し、ノルウェー国内でも強い影響力を持っていました。
さらに当時は貴族が非常に大きな力を持っており、マルグレーテはスウェーデン王アルベルトに反旗を翻した諸侯貴族らと手を結び、スウェーデンの支配基盤も固めました。
その後1397年に結ばれたカルマル同盟では、マルグレーテは自身の姉の孫に当たる、エーリック7世をカルマル同盟の初代王に据えます。
マルグレーテ自身は摂政としてエーリック7世を支えることとなるのですが、事実上の実権はマルグレーテが握っていました。
スウェーデンの脱退とカルマル同盟の決裂

先にも述べたように、ヨーロッパ一帯で貿易・商業圏を拡大していたハンザ同盟に対抗する形で結成したカルマル同盟は、1523年まで長きに渡り影響力を発揮し続けました。
しかし、最終的にカルマル同盟は1523年、スウェーデン国王グスタフ・ヴァーサによってスウェーデンが抜けることとなり、同盟関係は決裂を迎えることとなります。
スウェーデンの離脱及びカルマル同盟の破綻の背景にあったのが、1520年に起きた「ストックホルムの血浴」という事件です。
当時スウェーデンでは、北欧全土をデンマークが実効支配するカルマル同盟に対する反対運動が起こっていました。
その中でデンマーク国王クリスチャン2世は、カルマル同盟を批判するスウェーデン独立派の有力者達を次々に処刑・粛清を行います。
犠牲者の数は100人以上とされそのあまりの凄惨さは、処刑場所であったスウェーデン・ストックホルムの大広場が真っ赤な血で染まるほどだったといいます。
この「ストックホルムの血浴」と呼ばれる事件がきっかけとなり、スウェーデン国民の怒りは頂点に達することとなります。
そしてスウェーデン国内の独立派は団結してスウェーデン解放戦争を起こし、見事勝利を納めます。
スウェーデン独立派のリーダーだったのが、自身の父親もストックホルムの血浴で処刑されたグスタフ・ヴァーサという人物でした。
のちのスウェーデン国王グスタフ1世となるグスタフ・ヴァーサは独立後、カルマル同盟からの脱退を宣言します。
こうして北欧3ヵ国によるカルマル同盟は、スウェーデンが抜けることで崩壊を迎えることとなるのです。
その後スウェーデンは「スウェーデン王国」を成立させ、一方でカルマル同盟は残りのデンマークとノルウェーによる「デンマーク=ノルウェー二重王国」として新たに同盟を結ぶこととなります。

この新しい同盟は事実上、デンマークがノルウェーを従属国として支配したアンバランスな同盟でした。
それでも「デンマーク=ノルウェー二重王国」は1814年まで、長期に渡って結ばれることとなります。
最後はヨーロッパ中の国家が参戦したナポレオン戦争(1803年~1815年)において、1814年にスウェーデン王国との間に結んだキール条約によってデンマークは領地であったノルウェーを失い、「デンマーク=ノルウェー二重王国」も破棄されました。
こうして1397年に締結したカルマル同盟、そしてカルマル同盟の後を引き継いだデンマーク=ノルウェー二重王国という一連の君主連合は完全に終結したのです。
まとめ
ここまでカルマル同盟の内容や歴史について紹介してきましたが、いかがだったでしょうか。
カルマル同盟は1397年から1523年にスウェーデンが離脱するまで125年間続き、「デンマーク=ノルウェー二重王国」の同盟を含めると、400年以上に渡って存続し北欧諸国を結びつけた、北欧史において極めて重要な同盟なのです。
